葵が有瓜に初めて出会ったのは―― 忘れもしない、まだ幼稚園に入ったばかりの頃だった。 幼稚園の自由時間は、いつも苦痛だった。 当時四歳の葵を、ぐるりと取り囲むのはいつもの光景。 葵と同じ淡いスモックを被った同い年の子供たちだ。 早生まれで小柄だった葵は、諸々の事情から、酷いいじめに遭っていたのだ。 「あおいさまぼーちゅーじゅつもしらねーのかー?」 「えーそれでもなんとかってほんけのむすめかよー!」 「ほんけなのにおかしいぞー!」 「そうだそうだー!」 伝わりづらいので、意訳を交えて回想する。 「葵様は家業について不勉強すぎるのでは?」 「本家の一人娘ともあろうものがこの体たらく。我らなどと同じ真似はできぬと」 「家柄を笠に着たその態度が気にくわぬ」 「然り、然り」 葵はいつも俯いて震えていた。 いじめには葵の家柄が大きく関係している。 葵の家は、幼稚園から高校まで一貫教育を行う学校を経営していた。それなりに歴史のある学校だったがそれも過去の話。争いに得意な者が少なく、部活動強化振興制度によって施設のほとんどを他校に奪われてすでに久しい。 入園・入学希望者もみるみる減り、正宗家に縁のある子息を入学させてなんとか体裁を保っている状態で、本家と分家の隔たりは子供たちの間にまで広がっていた。 「お父様、ぼうちゅうじゅつって何ですか?」 「ああ葵よ嘆かわしい。そんな言葉をどこで覚えたのだ。――積むべき教養は他に山ほどある、お前は本家の一人娘なのだからな」 「はい……」 四歳の葵を両親は過保護に育てたが、それがまた分家の園児たちには気に入らなかった。 「いーけないんだいけないんだー」 「もんくがあるならじぶんでいえよー!」 「あおいさまはそだちがちがうからなー」 「そうだそうだー!」 やはり伝わりづらいので意訳する。 「葵様、親に言いつけたな」 「しょせんは七光り。我らと正面から向き合う気はないと」 「家柄を笠に着たその態度が気にくわぬ」 「然り、然り」 勢いがついたところでとうとう手が出て、葵は砂場に尻餅をついた。 思わず見上げた彼らの顔は、逆光に隠れていても、怯えるに十分な恐怖があった。 ああ、ここで私はおしまいなのかな。 それはとても嫌だったけれど、受け入れるしかないと諦めかけたとき。 「待て待てまてェ――い!」 遥か遠くから、堂々とした声が響き渡った。 「誰だ?」 「どこから声がした?」 「あそこだ!」 ものすごいスピードで、道路の向こうから一匹の馬が駆けてくる。 大きめの頭部と太い首つき、丸々とした胴回りと太くて短めの脚。背中に一際濃い線が走っている。 ずんぐりとしながらもはちきれんばかりに筋肉を奮わせる鹿毛の木曽馬が、怒涛の勢いで迫ってきて葵たちの目の前で急停止した。 鼻息の風圧が、園児たちの紅白帽を軽々と吹き飛ばした。 振り上げた蹄がリーダー格の園児の鼻先を掠めた。 体高は一四〇センチ程度で決して大型ではないが、園児にとっては奥穂高岳より大きく見えた。 「弱い者いじめすんな! ケンカなら私が相手だ!」 その馬の背から堂々と声を張ったのは、なんと葵と同い年くらいの女の子だった。 「なにものだ、名を名乗れ!」 「名乗るほどの者ではない。くらえ!」 「うわあ! 不意打ちとは卑怯な! 全員でかかれ!」 「馬鹿め。この馬は天然記念物に指定されている。お前らに傷つけられるのか」 「ぬうん、小癪な!」 たずなを引くと馬がいなないて、園児たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていった。 あとには座り込んだままの葵だけが残った。 「立てるか」 馬上から手を差し出す女の子こそ、後の本陣高校の生徒会長、長谷部有瓜その人であった。 一目惚れしたとしても無理はあるまい。 「……あの、私――」 「むっ!」 そのとき、パトカーのサイレンが聞こえてきて、馬に乗った女の子は振り返らずに駆け去ってしまった。 名乗りもせずどこの誰ともわからない。しかしその覇気に溢れた姿は葵の中にしっかりと刻まれた……。 それから十年の歳月が過ぎた。 引っ込み思案な性格はそのままだが、心に芯の強さを得た葵はなんとか日々をやり過ごして生きていた。 葵の父は、学外施設の使用権争いから退き、代わりに他校と取引して援助することで地位を保っていた。 腹の裡の読めない古狸と揶揄されるも、いまでは内部調査や情報操作、秘密裏の妨害工作などを請け負う東海の隠密として、裏のエリート学校にまで上り詰めたのだ。 「……皆に集まってもらったのは他でもない」 薄暗い部屋で役員会議が開かれていた。ここでは集められた情報の精査が行われる。 正宗家からは父と二人で出席したが、葵はいつもお飾りだ。煌びやかな着物を着て父の側に控えさせられていた。 「皆の耳にも届いているだろうが、最近ある学校の動きが激しくなっている。長谷部が仕切る本陣高等学校だ」 「尾張の大うつけではないか」 「あいつは何を考えているか分からん。あのひょうげた態度が気にくわぬ」 「然り、然り」 「だがこのところの戦果は目覚ましい。早々に弱みを握る必要があると考えるが如何に」 「奴には中学生の一人娘がいたはずだ。そこから切り崩すのが順当か」 「こいつだ」 輪の中の一人が懐から写真を取り出して投げる。 黒髪を後ろで結んだ活発そうな姿を目にした途端、葵は弾かれたように写真を掴んでいた。 津波のような衝撃とともにあの時の記憶がよみがえる。 このとき初めて、葵は口を開いた。 「私がやります。私に、させてください」 戸惑いが薄暗がりに広がったが、すぐに否定的な笑い声に変わる。 しかし葵は頑として譲らなかった。最後に葵の父が鶴の一声を響かせた。 「葵に任せる」 不満も露わな面々には目もくれず、葵は大事そうに写真を懐に入れた。 ターゲットの名は―― (――ゆうり、ちゃん) *** 天気明瞭、空に響くのは鷹の声。 生徒会室には、威勢のいい掛け声が響いていた。 葵が掃除当番を済ませてやってきたとき、部屋にいたのは有瓜ともう一人。神妙な顔で膝を突き合わせていた。 二人ともカードを扇状に持っている。その手札からそれぞれ一枚ずつ引き抜いて、 「いくよ有瓜ちゃん。はっけよーい――のこった!」 「のこった――うぎゃー! ここで上手投げかよ! もう投げ手は残ってねーと思ったのに!」 「有瓜ちゃんは突き出しだね。へへへ、あたしの勝ちー」 「無効だ無効! まわし取られる前に私の突っ張りが入ってた。だって突っ張りの方が絶対早いもん」 「だってじゃないでしょ、そういうゲームなんだから。勝ちは勝ちだからね」 「みとめねー!」 誰だろう。生徒会役員ではない、初めて見かける生徒だった。 役員以外が生徒会室にいることも驚きだが、二人きりで楽しそうにカードゲームをする有瓜なんて想像したこともなかった。人望はあるが友達のいない生徒会長だ。 女生徒が葵に気づいた。 「――こんにちわ! それじゃあたしはそろそろ帰ろっと」 「な、なぁ。その『相撲の決まり手八二手トランプ』、ちょっと貸しといてくれよ。くれって言ってないぞ、永久に借りるだけだぞ」 「だめー。じゃあ有瓜ちゃん、また今度ね」 入り口に立つ葵の側をすり抜けて女生徒は階下に降りていった。すれ違うとき、葵に向けてひらひらと手を振った。 「有瓜ちゃん、あの人は?」 「ん? あいつは桐栄。大阪から来た転校生だ」 「……そう」 加えていうと、有瓜が人の名前を覚えることは滅多にない。 もやもやする葵。 (……ううん。有瓜ちゃんに友達ができたなら、いいことだよね) そう思って気を取り直す。 有瓜は鼻が利く。今までも有瓜を利用しようとする者や他校の間者などが近づいたことがあったが、それらのことごとくを有瓜は見抜いて追い返していた。 だから桐栄という人も悪い人ではないのだろう、と前向きに考えることにした。今度話をしてみよう――。 「それより葵、さっきこれが届いた」 一通の速達郵便を、有瓜は投げてよこした。 「合戦の宣戦布告……どこから?」 「石山本願寺附属と、比叡山学園から。二通来た」 「――ええっ? 本願寺附属が明日で、比叡山が明後日って、ずいぶん急だね」 「手を組んで畳み掛けるつもりだろうな。それにしても山の下の施設なんかあいつら使うのか? いらなくね?」 「比叡山学園は、この間別の学校に山門を取られてるから……その返還交渉に使うんじゃないかな」 「なにぃ……? うちだったら勝てるってか、舐められたもんだな」 「――でもこの勝負、フリークライミングとトレイルランじゃ本陣高校の分が悪いかも。そんな部ないし……」 「心配すんな。私に任せろ」 不敵に――肘掛けに自然体で寄りかかって、有瓜がにやりと笑う。 「クラウンだろうがトレインだろうが敗ける気がしないぜ」 「さすが有瓜ちゃん!」 「わはははは」 そして競技を知らないまま普通にジャージで現れて、他校の度肝を抜くのはまた別の話である。 *** 葵は本陣高校の廊下を一人で歩いていた。 板貼りの廊下を足音もなく進む。家業のせいでいつの間にかそういった歩法が身についた。 廊下の向こう側から四人組の生徒がやってきた。騒がしいというほどではなく、自然な様子で談笑しながら。 「――葵様」 すれ違うとき、その中の一人が囁いた。 「御役目をお忘れなきよう」 葵は、見向きもせずに歩み去る。 四人組も、何事もなかったように去っていく。 「長谷部有瓜、何するものぞ」 「しょせんは成り上がりのうつけの娘」 「気にくわぬが、それもこれまで」 「然り、然り」 くぐもった忍び笑いがこだました。 長谷部有瓜包囲網の始まりである。
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