ある春の休日を思い出す。 といってもそんなに昔のことではない。ステラ・エトワールのチームを結成して間もない頃に見た、昼下がりの河川敷のダンスのことだ。 九条院家の会合に呼び出されて惺麗は出先にいた。会合などというものの、つまるところ定期的に開催される食事会であり、親族の中でも力のある者たちが集まっていた。 惺麗や両親が出席するのは当然だったが、いつにも増して息が詰まる気持ちがしたのは、今年は兄が一緒にいないせいだった。 もちろんそれを表情に出すような不作法はしない。 優雅に挨拶をこなし、微笑んで見せた惺麗の姿は、その場の誰もが納得するような令嬢の姿だった。 食事を終えると会合はお開きとなった。続いて予定がある両親と分かれて、平塚の運転する車で惺麗は料亭を後にした。 「……ふう」 気が緩んだ瞬間に、どっと疲れがやってきた。 平塚が、ルームミラー越しに気遣わしげな表情を向けてくる。 「平気ですわ。ありがとう平塚。――ああ、それにしても、今ごろお兄様は何をしてらっしゃるのかしら。お兄様が今日のわたくしを見たら、それはもう褒めて褒めて褒め尽くしてくださるに違いありませんのに!」 兄のことを想う惺麗はいつも幸せそうで、平塚は穏やかな笑顔で見つめていた。 しかし最近、彼女には兄のほかによく思い浮かべる顔があった。 「今ごろ千彗子も晶も練習しているかしら。このわたくしとチームを組んだのだから優勝が約束されているとはいえ、自主練もできないようなら同じステージに立つ資格はありませんわ。千彗子は気を遣いすぎますし、晶はまるで暴れ馬! リーダーとしてわたくしが導かないと始まりませんわね」 平塚がハンドルを切る。初老の執事は、自分のことのように嬉しそうに聞いていた。 昼下がりの陽射しはあたたかい。 休日の街並みに、新緑が瑞々しく輝いている。 車は速度を感じさせない静かな運転で、屋敷へと向かって加速していく。 惺麗は晶と千彗子の踊る姿を思い出していた。 流れる景色を眺めながら、身体は自然と、いま練習している振り付けのリズムを刻んでいた。 鏡越しに見た三人の振付が、頭の中で映像として流れている。 晶は完璧に振りをこなして間違えることはない。千彗子のダンスには表情があり、見る者の視線を自然と惹きつけて飽きさせない。惺麗は言わずもがな、どの部分を切り取っても完璧の自負がある。 全体的にレベルは高い。ステップも振りも綺麗に揃っている。 しかし、惺麗が納得するレベルではなかった。 わずかに損なわれている一体感。その原因がどこにあるのか、まだ見つけられていなかった。 学内選抜は勝てるだろう。しかしそれがゴールではない。 「……何かが足りませんわ。チームとしての何かが。平塚、わたくしたちのチームには何かが足りませんの! ああ、気になりますわ!」 両手をばたばたさせて暴れる惺麗は、平塚くらいしか知らないであろう子供のような姿だ。 平塚はそれを微笑ましく見つめていた。 しばらくして、車がちょうど大きな川を渡る橋にさしかかるところで、水面に反射した太陽が惺麗の横顔を照らした。 眩しさに目を細める。かざした手の向こうに何かが見えて、あら? と惺麗は不思議そうに声を上げた。 「あれは……ダンスの練習かしら。平塚、見に行きますわ。ちょっとあそこまで回しなさい」 すぐに応えた平塚が対岸から折り返して、河川敷の上に車を止めた。 練習をしているのは高校生だろうか、三人の女生徒が原っぱで身体を動かしている。一人は実力者のようだが、残る二人は素人だとすぐに分かった。短い振り付けを繰り返し繰り返し身体に覚えこませているようだった。 惺麗は車から降りた。 風が髪を揺らす。花咲くような心地良い陽気だった。 たどたどしいステップに、腕の動きも揃っていない三人のダンスはまったく練習量が足りていなかった。しばらく三人で合わせていたが、そのうちにライトブルーのトレーニングウェアを着た女生徒が提案し、ピンクのトレーニングウェアの女生徒とイエローグリーンの女生徒の基礎練習に切り替えて進めていた。 惺麗はその単調な基礎練習を遠巻きに眺めた。 (――……あら?) 不思議と、飽きない。 ふと疑問に思って見つめると、ピンクのトレーニングウェアの女生徒から目が離せない自分に気が付いた。 容姿が特別に美しいわけでもない、どこにでもいそうな女生徒だ。けれど失敗しても楽しそうに笑い、踊っているときはもっと楽しそうに笑う。その笑顔につられてか、他の二人も実に楽しそうに踊っている。 そのキラキラとした輝きが。 技術点だけでは測れない何かが、瞬間、惺麗の心の奥を通り抜けた。 それは惺麗のチームに足りない何かのような気がした。 「――――!」 ハッとして、掴まえかけた答えを探す。もともと理屈を考えて言葉にするのは得意ではない。胸に残った感覚が零れ落ちてしまわないように、惺麗は慎重に車に戻った。 浮かぶのはチームメイトの姿だ。 身体の芯が熱かった。今すぐ練習したい。今ならもっと違うダンスができる気がした。千彗子と晶と共有したい高鳴りを胸に惺麗は屋敷への道を急がせた。 もどかしい気持ちを抱えて、しかし知らず知らず、口元には笑みが浮かんでいた。 余談だが、もちろんそんな感覚的なものを惺麗が説明できるわけもなく、休日に呼び出されて不機嫌な晶と一悶着あったり千彗子がなだめたりするのは、このときの惺麗には知る由もないことだ。 「ところで平塚。彼女たちはどこのチームなのかしら」 帰りの車の中で、惺麗は言った。 彼女のダンスには何かがある。彼女がダンスをする限り、いつか自分の前に現れる。 これっきりで終わってしまう出逢いではないことを確信していた。 九条院家令嬢。社交界の華。並ぶもののないダンスの申し子。 兄以外に、こんなに心を震わせる人などいないと思っていた。 「わたくし――気になりますわ!」 これが九条院惺麗が生涯のライバルと定める相手に出逢った、ある春の日の思い出だ。 *** その春もじきに終わろうとしていた。 大型連休明けの聖シュテルン女学院は、どこを見ても、学内選抜に向けての練習に活気づいていた。 その学内選抜にステラ・エトワールが確実に勝利するために、星司はどこよりも先駆けて練習試合を組んだのだった。 相手である花護宮高校から送られてきた資料を手にチームの練習教室にやってくると、勢いよくドアを開け放った。 「綺羅星のように――輝いているかね諸君!」 星司のボリュームはすこぶる大きい。 しかし応える惺麗も負けじと大きい。すかさず振り向いた惺麗は、髪をかき上げて不敵な笑みで応えた。 「当然ですわ! この九条院惺麗、どの星よりも輝いていますわ――そう、夕時にひときわ明るいあの星よりも!」 「うむ! それでこそステラ・エトワールのリーダー、九条院惺麗くんだ!」 練習室に大音声が響きわたり、晶が心底うるさそうに顔をしかめている。ちょうどクールタイムに入ったところだったので、千彗子が配るタオルを受け取ってジト目で汗を拭いていた。 放課後の空は夕方にしては明るく、たしかに金星が輝き始めていた。 「先生、こんな時間にどうしたの」 晶が言う。下校時刻間近になってようやくやってきたトレーナーへの嫌味を含めるが、気づかない星司は満面の笑みで、手に持った封筒を掲げて見せた。 「練習試合オーケーの返事が返ってきたぞ! メンバーの資料も届いている。これがっ! 君たちの記念すべき初試合の相手校だッ!」 星司から配られる封筒を、惺麗は満足そうに、晶は辟易しつつ、千彗子は期待に満ちた顔で受け取った。きちんとコピーされて四部あるところに、なんとなく気遣いが感じられないこともない。千彗子は素直に受け取るが、晶はふんと鼻を鳴らしていた。 「落ち着きなよ先生、みっともない。だいたい惺麗に渡したってちゃんと見るかどうか怪しいんだから、僕と須藤さんの二部でよかったんだ。紙の無駄だよ」 「この僕の分が数に入ってないじゃないか」 「まさか暗記してないとでも?」 「ちょっと星司! わざわざ封筒を糊付けしましたわね!」 「あ、本当ね。ハサミあったかしら」 「ほんとだ。なんでこういちいち余計なことを」 「ハッハッハ! チームの情報は最高機密。部外者に漏れるようなことがあってはならないからね! なぁ惺麗くん!」 「えっ? そ、その通りですわ! 星司にしては少しばかり気が利いていますわね」 親指を上げる星司に向かって惺麗が鷹揚な様子で頷いている。ソーイングセットを取ってきた千彗子が笑顔でハサミを渡してくれる。 礼を言いつつ受け取って、封筒に切れ目を入れながら晶は思った。 (この雰囲気にも慣れたな……) 気を取り直す。晶はA4のカラー印刷を取り出して、ざっと目を通した。 「チーム<ブーケ>……やっぱり聞いたことないな。惺麗はなんでこのチームのこと知ってたの」 千彗子に封筒を開けてもらっていた惺麗が自慢げに髪をかき上げる。 「以前、たまたま見掛けたのですわ! ――ありがとう千彗子。この春日桜映……彼女には何かがある。確信がありますの!」 「ハッハッハ! 一流同士は引かれ合うもの。惺麗くんの目を僕は信じている! ところで千彗子くん、僕にもハサミを貸してくれないか」 「ああっ、すみません先生、うっかりしちゃって」 「気に病む必要はないとも。僕もみんなと興奮を共有しようと思って、まだしっかり中を見ていないんだ!」 「そうなんですね。でしたら一緒に開けましょうか」 資料には顔写真やプロフィールまで書かれている。春日桜映のページは一番頭、つまりチームリーダーだ。目立った経歴も特にない。晶には、普段はこんな様子でもダンスにシビアな惺麗が、この生徒を気にかける理由が思いつかなかった。 「彼女には何かあるって……何があるの?」 「何かといったら、何かですわ!」 「全然わかんないんだけど」 「そうですわね……こう、キラキラとした、何かが!」 「…………」 両手を振り回してキラキラ感を説明する惺麗を置いて、晶は資料に目を戻した。 なんとなくめくったページで、顔色が変わる。 その様子に千彗子が気づいて声をかけた。 「どうしたの晶さん。この子……水川、すみれさん? お知り合いなの?」 「…………」 晶は食い入るように資料を見つめていたが、ふいに力を抜いて嘆息した。 「……今度こそ勝つんだ」 「え?」 「ううん、なんでもないよ。すごい経歴だと思ってさ。ほら、いろんなコンクールで優勝してる」 「本当! すごい人だわ! でも、じゃあどうしてこの人がリーダーじゃないのかしら」 「何か事情があるのかもね。春日って人の方がよっぽど上手いとか」 「あ、なるほど。だったら、春日さんと同じ中学だった芳野香蓮さんも、相当な実力者かもしれないわ」 「かもしれないね。どちらにせよ、僕らはベストを尽くして勝つだけだ。頑張ろうね、須藤さん」 「ええ!」 千彗子に向けていた笑みをしまい込むと、晶は静かに燃え上がる胸を押さえた。 (もう一度バレエに――ダンスに戻ってきたのに、リーダーじゃないだって? 一番の君じゃなきゃ僕が勝つ意味ないじゃないか。それとも、もう君にとってダンスは遊びなの? だとしたら――) 険しい様子で資料を見つめ続ける晶の背後で、星司が不敵に笑いだした。 「トレーナー……トレーナーだと! まさか! こんなことがッ! そうか、これがッ! 運命というヤツか! フフフフフ……ハハッ……ハァーッハッハッハ!! 運命の歯車はッ! 回り出したッ! ありがとう惺麗くん! 君はまぎれもなく僕の女神だ!」 「ふえっ? ま、まぁ、当然ですわ! なぜならわたくしは九条院惺麗! 九条院惺麗ですわぁ! オーッホッホッホ!」 「ハーッハッハッハッハ!」 「オーッホッホッホッホ!」 その隣ですべてのページに目を通し終えた千彗子が、頬をほころばせながら、大事そうに資料を封筒に戻していた。 「ブーケの皆さん、どんな方たちなのかしら。いろいろお話できたらいいなぁ。――いけないいけない。初めての試合なんだし、気を引き締めないとね。でも――ふふ、楽しみね」 それぞれ思いを募らせつつ、試合へ向けて熱は高まっていく――。 *** そして―― まもなく、ブーケとステラ・エトワールの試合の日がやってくる。
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