「桜映は今日のパートを宿題にするわね。明日は土曜日だから、朝はいつも通りここに集合でいい?」 「うん!」 桜映も香蓮も元気に返事をする。じっくりとストレッチを済ませているうちにやってきていた咲也も、問題ないとうなずいた。 「学校に許可は取ってあるよ。でも無理はしないようにね」 「はい!」 声をそろえて返事をする三人。すみれが締めくくった。 「ありがとうございます。じゃあ、また明日。お疲れ様でした」 「お疲れさまでしたー!」 汗を吸った上着が、日に日に重くなっているような気がする。 季節が移るにつれて、湿度も気温も緩やかに高まっている。熱中症が恐い時期だ。身体への負担を懸念する一方で、もっと練習量を増やさなければという気持ちもすみれの中にあった。 どちらをとるか、すぐには決めかねた。理性的なすみれには珍しいことだった。 (関東大会まで、あとどれくらいだったかしら……) コンクール前に不安になることは、これまでにもあった。 そんなときは基本に戻って納得いくまでレッスンに明け暮れたものだ。 同じようにすれば、この不安も消化できるはずだと、すみれはそう信じていた。 衣替えして半袖になった制服に頭を通し、襟から髪を引き上げる。さらりと広がった黒髪を、慣れた手つきでまとめ直す。 隣から香蓮の心配げな声が聞こえてきた。 「さえちー? 着替えないと下校時刻になっちゃうよ」 「ん~……もうちょっとでできそうなの。いち、に、さん、し――」 桜映はさっきすみれが指摘したフレーズを繰り返していた。やっぱりまだ少しずれている。 「宿題にするとは言ったけど、もう遅いから切り上げましょう? メリハリをつけるのも練習のうちよ」 「でもすみれちゃん、もうちょっとなの。いち、に……わわっ?」 と、そのとき不意に桜映の足がもつれた。 バランスを崩した桜映を、すみれと香蓮が咄嗟に抱きとめる。倒れはしなかったもののそのままぺたんと座り込んでしまった桜映が、あれ? と床に片手を突きながら困ったように笑った。 「えへへ……なんだか力が入らないかも」 「えっ? 香蓮、スポーツドリンクある? 脱水症状かも」 「あるよ。さえちーこれ飲んで。一気に飲んじゃだめだよ。先生呼んでこようか?」 「あー、大丈夫! 平気へいき! ほら、このとおり!」 強がって立ち上がる桜映。すみれも香蓮も顔を見合わせた後、手近な椅子を引き寄せて桜映を座らせた。 大事は無さそうだが、その笑顔はどこか弱々しく見えた。自分の組んだ練習メニューのせいだ、とすみれは後悔した。 「桜映。やっぱり宿題は無しにしてゆっくり休みましょう。明日も無理しないで、来れそうだったらでいいからね」 「えー? すみれちゃん心配しすぎだって。大丈夫大丈夫!」 「でもね桜映」 「明日こそ、三人でぴったり合わせたいもんね! あたしがみんなの足を引っ張っちゃってるもん。ちゃんとできるようになりたいの!」 「桜映……」 ――不安なときは納得いくまで練習した。 しかしそれは自己管理ができるならの話であり、桜映は夢中になりすぎる傾向があった。 すみれはスパルタを美化しない。身体を壊すかもしれないのに練習しろなんて言う指導者は信用しないし、自分自身の練習量も限界をちゃんと決めていた。 けれど桜映は違う。文字通り納得いくまで練習してしまうだろう。 掛ける言葉にすみれは迷った。 隣から香蓮が微笑んで言った。 「さえちーは足を引っ張ってなんかないよ。――ほら、汗ふいてあげるね。おでこ出して」 「ありがとー。香蓮ってばお母さんみたい」 「手のかかる娘はたべちゃうよー」 「どんな設定!?」 あ……、と言葉を飲み込むすみれ。 桜映は足を引っ張りなんかしていないし自分の指摘がそう聞こえていたなら謝りたい、と咄嗟に出てこなかった自分に驚いていた。本当はそんなことを思っているんじゃないだろうか。すみれは自分を疑った。 「……やっぱり、今夜は身体を休めたほうがいいわ。今日一日は練習のことを忘れてゆっくり寝るの。ね?」 「でも、あのフレーズが上手くいったら、この曲完成でしょ? 時間もないし早くできるようにならないと」 「桜映に何かあったらいけないわ。お願い」 「大丈夫なんだけどなぁ」 しぶしぶながら了解する桜映。 香蓮が、はいおしまい、とタオルを置いて言った。 「もう立てそう? 早く着替えないと置いてっちゃうよ」 「そんなぁ。お母さん冷たいよぅ」 「かれんお母さんの本日の営業はおしまいになりました。さあ、はやくはやく」 「はぁい」 「すみれちゃんもかれんも先に行っちゃうからね~」 「えっ! 待って待って!」 大急ぎで制服を身に着ける桜映から少し離れたところで、香蓮はすみれにささやいた。 「さえちーって夢中になると一生懸命になっちゃうから、これくらいよくあることなんだ」 「昔からそうなの?」 「うん。だから、自分のせいなんて思っちゃだめだよ」 驚いて、香蓮をまじまじと見つめる。にっこりとしたその微笑みに、すみれは自分の表情もつられて和らぐのがわかった。 下校のチャイムが鳴るのと桜映が鞄を肩に掛けたのは同時だった。職員室に挨拶に行く途中で、思いついたように香蓮が言った。 「そうだ! さえちーもすみれちゃんも、明日はなにか予定あったりする?」 「あたしはなんにも!」 「明日なら私も平気よ。どうしたの?」 「えっと、商店街に新しくできた喫茶店があってね。そこのパフェがすっごく美味しいんだって! テレビで紹介されてたんだよ! みんなでどうかなぁ」 「行こう行こう! いいよね、すみれちゃん!」 「ええ。じゃあ、その分――その、お昼ご飯を軽くしないとね」 香蓮が少しだけ心配げな目を向けて、すみれは何でもないというように片目をつむって見せた。 「パフェもケーキも、いろんな種類があるんだって。楽しみだね!」 「練習しっかり頑張ったら、両方食べてもダイエットの神さまは許してくれるよね」 「うーん、ダイエットの神さまが許しても、ダンスの神さまがオッケーするかどうかかなぁ」 「そうね、ちょっとした体重の増減で動きが結構変わってくるもの。推奨はしないけれど……って、どうしてこっちを見るの? ちょっと香蓮、拝まないで。桜映も真似しないの」 「なにとぞ、なにとぞ~!」 「二人ともふざけてないで。職員室に着いたわよ。――失礼します、東先生いらっしゃいますか」 扉を開けると、咲也は自分のデスクで荷物をまとめているところだった。職員室に残っている先生も数えるほどだ。 近づいて教室の鍵を返すと、咲也が言った。 「ちょっと遅めだったけど何かあったかい?」 「いえ特には! ちょっと明日のことで話が盛り上がっちゃって。そうだ、東先生は明日の練習後は予定ありますか? みんなで商店街に遊びに行こうって言ってるんです」 「そうなんだ。嬉しいけど、僕なんかがいるときっと気が休まらないよ。三人で楽しんでおいで」 「そんなことないと思うけどなぁ。わかりました! じゃあ先生、さよならー!」 「うん。気を付けて帰るようにね」 「はーい!」 三人で並んで校舎を出た。 校門までの間、桜映は先ほどのクリアできなかった振付を思い出していたようだった。 軽く手の動きを交えつつ、真剣な表情で呟く。 「もうちょっとで出来そうかな」 「さえちー、またこけちゃうよ」 「桜映は練習禁止。今日は早く寝ること。いいわね?」 「でもでもすみれちゃん」 「桜映~?」 「ごめんなさいもうしません……」 しゅんとする桜映。浮かない顔のすみれ。 同じようで、どこかいつもと違う空気に、香蓮は二人の顔を交互に見つめた。 頭上に広がる曇り空のように、それは良くない兆しに思えた。 そしてその予感は、早くも的中してしまうのである――。
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