しとしとと雨の降り続く日曜日。 一日経っても気持ちは晴れない。居てもたってもいられなくなって、香蓮は桜映の家に向かって歩いていた。 抱えた紙袋から焼きたてのクッキーが甘く香っている。桜映のために焼いたものだ。 桜映の喜ぶ顔を想像して、食用の着色料でほんのりピンクに仕上げた。 「さえちー、どうしてるかな……。昨日のことでちょっと気まずくっても、お返事くらいくれてもいいよね! こうなったらかれんから遊びに行っちゃうんだから」 一軒家が立ち並ぶ平坦な道を進む。 小さな公園のそばを通り過ぎ、歩道のマンホールをいくつか数えたところの、玄関先にピンクの花が咲く家。そこが桜映の家だ。 不安を追い出すようにしてやってきたが、昨日の様子を思い出すとインターホンを押すのに少し勇気がいった。 桜映の部屋にはカーテンが引かれている。 しばらく見上げて、香蓮は人差し指に力を込めた。 インターホンに応答があった。しばらくしてエプロン姿の桜映の母が玄関を開けてやってきた。 「香蓮ちゃん、いらっしゃい」 「こんにちは」 「どうしたの? さあ上がっていって。ちょうど貰い物のケーキがあるんだけど、香蓮ちゃんチョコケーキは好きだったかしら? たくさんあるのよ、良かったら食べて」 「えへへ、ありがとうございます。さえちーにクッキー焼いてきたんですけど、いますか?」 「それがねえ――桜映ったら、風邪引いて寝てるの」 「さえちーがですか?」 珍しいことだった。桜映が風邪を引くなんて滅多になかった。 桜映の母は心配しないでというように破顔した。 「元気の塊みたいな子だけどたまにあるのよ。辛そうな顔してても熱なんて全然ないのよ? 甘えて寝てるだけだから、香蓮ちゃんは心配しないでね。一日経ったら何にもなかったみたいにケロッとしてるから」 「だったら今日は帰ります。さえちーが起きたら、また明日ねって伝えてもらってもいいですか?」 それから、よかったらこれ、と抱えていた紙袋を手渡した。 「上手に焼けたんですよ! さえちーきっと元気になると思うな」 「あら、いつもありがとう香蓮ちゃん。今度うちにご飯食べにいらっしゃいね」 「えへへ、ありがとうございます」 チョコケーキを丁寧に断って桜映の家を後にする。 寝込んでいると聞いて心配になる反面、メッセージに返事がないことに理由がついた気がして、ほっとしている自分がいた。 立ち止まって、携帯を取り出して着信を確認する。桜映からのメッセージはまだない。 傘を持つ手で携帯を支えつつ、すいすいと文字を打ち込んだ。 「えーっと、『お母さんにクッキー渡したよ』っと」 ふと、気づいて顔を上げる。行きにも通った公園のちょうど入り口のそばだった。 一つしかない遊具の滑り台。小さな砂場。丸太を半分にしたようなデザインのベンチが四方に一つずつ。広がりすぎないように剪定された銀杏の木がひっそりと佇んでいる。変わらない景色が切りとられた箱庭のように、ささやかに広がっていた。 小さい頃、毎日のように桜映と一緒に遊んだ公園だ。 周りにぐるりと植えられた生垣に、ちょうど子供一人分の大きさの穴が空いていて、やんちゃな桜映は香蓮が止めるのも聞かずにそこをくぐっては向こう側から手招きをしていた。ほら、香蓮もおいでよ、と。 懐かしい思い出だった。そういえば、泣いている桜映を初めてなぐさめたのも、この場所だった。 随分前だし、事件といえるほど記憶に残ることでもない。もう桜映は忘れているだろうけれど。 「『早く良くなってね』――えいっ」 少し軽くなった指先で、送信ボタンをタップした。 *** 『すみれちゃんの方には、さえちーからなにか連絡あった?』 夜に香蓮から電話をもらうまで、何も手につかない一日だった。 お風呂上がりのストレッチをしながら、すみれは力なく返事をした。 「ううん。こっちには何も」 『かれんの方も。さえちーのお母さんに聞いたんだけど、風邪を引いちゃったみたいで今日はベッドでお休みしてたんだって。でも、そんなにひどい風邪じゃないから明日には元気になるだろうって言ってたよ』 香蓮の励ますような気遣いを感じて、すみれは電話口でそっと微笑んだ。 『明日さえちーに会ったら何話そうかな。寝ちゃってるならきっと今日のロクムラ動物園は見れてないよね。すみれちゃんはテレビ見た? かれん感動して泣いちゃったよー。そしたらお兄ちゃんが「香蓮はまだまだ子供だなぁ」なんて言うんだよ! 失礼しちゃうよね!』 くすくすと笑って返事をする。香蓮がひとしきり兄のことを話した後、すみれは今日、家族で一緒に食事に出かけたことを香蓮に話した。だから香蓮の言う番組は見損ねたと言うと、録画したのを持っていくから絶対見てねと、力強く勧められた。 『すみれちゃんが観たあと、さえちーにも貸してあげようっと。すみれちゃんもさえちーもぜったい感動しちゃうよー』 「――うん。ありがとう香蓮」 『えへへ、楽しみにしててね!』 通話が終わって、すみれは桜映の連絡先を表示した。 寝ているところを起こしてはいけないと思って、メッセージを呼び出して、思いつく言葉を書き綴っては消した。 何度打ち直しても上手く纏まらない。 もやもやした気持ちを抱えたまま、結局白紙に戻ってしまった画面を見つめて、やがて閉じた。 「明日学校で直接――それが一番だわ」 そう決めて横になってもすっきりしない。掛け布団を引き寄せて、寝返りを何度も打った。 こんなに誰かのことで悩んだのは初めてかもしれなかった。 明日会ったらどうしよう。最初に何が言えるだろうか。上手く話せる気なんて全然しない。 それでも会いたい。桜映と話したかった。 しかしまだそれが叶わないと知っているような、悪い予感がすみれを不安にさせた。 *** そして翌日。 「――桜映、今日もお休みなの?」 一人で教室にやってきた香蓮をすみれは、やっぱりといった気持ちで受け止めた。 香蓮もきっと予感していたのだろう。落ち着いて、困ったように笑ってみせた。 「いつも通り起こしにいったんだけど、まだ体調が良くならないんだって」 「でも昨日はひどい風邪じゃなかったのよね?」 「うん。どうしちゃったのかな……携帯のお返事もまだだし」 「そう……」 すみれは決心して顔を上げた。 「放課後、二人で桜映の家に行きましょう。東先生に事情を話して練習をお休みにして――いいかしら香蓮?」 「もちろん! すみれちゃんならそう言ってくれるって思った」 ――私なら? 思わぬ言葉に、眉を寄せて、すみれはすまなそうに目を伏せた。 「そうかしら。いつもの私だったらこんなこと言わないと思う。だってきっと桜映にとって迷惑だから、本当言うと、とっても不安」 「でもすみれちゃんは行こうっていってくれた。それはなんで?」 「それは、いつもの桜映らしくないって思ったから。まだ知り合って短い私だけど、一緒に練習したチームメイトだから」 「それだけ?」 「……ううん。――友達だから」 口にすると、不思議と肩の力が抜けた。 そうか、と不意にすとんと収まった。友達だから一緒にいたくて、友達だから謝りたくて、友達だから、お節介でもずけずけと踏み込まないといけないときがある。 目の前のもやが晴れていく気がした。 香蓮が嬉しそうにうなずいている。急に気恥ずかしくなって、すみれは明後日の方へ視線を向けた。 「なんだか不思議。一日会ってないだけなのに、ずっと離れているような気がして落ち着かないわ」 「放課後もお休みの日も、ほとんど一緒にいたもんね。三人でいるのが当たり前になっちゃったよ」 「桜映にとってもそうかしら?」 「一緒に訊いてみようよ、さえちーに!」 にっこり笑って香蓮が言った。そのときすみれは香蓮がいてよかったと心から思った。 四時限まで授業を受け、昼休みになったら二人で咲也に了解を取りに行った。 咲也も桜映の体調を案じていた。 「春日さんのことはきっと芳野さんと水川さんの方が分かると思うから。ただの風邪だったら長居せずに帰ること。そうじゃなかったら、早く元気な顔を見せてほしいと伝えてくれるかな」 伝言を受け取って、職員室をあとにした。 午後の授業が終わり、放課後のチャイムが響き渡るとすみれと香蓮はすぐに学校を出た。 すみれにとって、桜映の家はこれで三度目だ。 玄関先の小さな花が、降っては止んでを繰り返している雨粒を受けて、涙ぐむように潤っている。見上げた二階の桜映の部屋はカーテンが引かれている。 インターホンを香蓮が鳴らした。出迎えてくれた桜映の母に案内されて、靴を揃えて家に上がった。 香蓮に続いて階段を上った。部屋のドアは閉ざされている。外から見ただけでは、鍵がかかっているかはわからなかった。 コンコンコン、と香蓮がノックをして呼びかけた。 「さえちー、起きてる?」 返事はない。香蓮に続けて、すみれもドア越しに声を掛けた。 「桜映、体調はどう? 桜映がいないと静かすぎるわ。早く良くなってね」 「さえちーのお顔が見れなくて、みんな心配してるよ」 しばらく待ってみたが、返事が返ってくることはなかった。寝ているのかもしれない。 後ろから上がってきた桜映の母が、二人を見かねてドアノブに手を伸ばそうとしたのを、すみれはやんわり押しとどめた。それで分かってくれたようだった。 代わりに桜映の母は、せっかく来てくれたのにごめんなさいねと苦笑した。 「でも大丈夫、この子ってば根が単純にできてるからすぐ元気になるわ。昔からそうなのよ、全然じっとしてられないんだから。すみれちゃんみたいな大人っぽい子が一緒にいてくれるんだからちょっとは見習ってくれたらいいんだけど。だから、もうちょっと待ってあげてね」 すみれと香蓮に笑いかけた。 そうして桜映の母は、ドアの向こう側に聞かせるように、ボリュームを上げて言った。 「こんなに優しい友達がいて、桜映は本当に幸せ者ねえ」 *** その夜、すみれに電話を掛けてきた香蓮の声は、どこか落ち着いたようなトーンだった。 『さえちー、今日もお返事くれなかったよ』 「私の方も。また明日行ってみましょう」 『そうだね。いまごろどうしてるのかなぁ……』 「もう。香蓮まで元気がないと……困るわ」 すみれは口を尖らせてみせた。本気で拗ねたわけではないが、こんな風に感情を見せたことがあっただろうかと、自分自身不思議に思った。 香蓮が電話口で慌てたように返事した。 『ごめんね。今日はちょっとしょんぼりかれんだったみたい。かれんは元気だよ!』 「ううん、冗談よ。意地悪言ってごめんなさい」 二人で謝って、小さく笑い合った。 話題は桜映のことに戻った。香蓮が小さい頃の桜映の話をぽつりぽつりと話しはじめた。 『さえちーはね、昔からいっつも笑顔で元気だったんだ。楽しいことを思いつく天才みたいな? 新しい遊びを見つけてきては、かれんの手を引っ張って連れて行ってくれたの』 「ふふ、桜映らしいわね。楽しそう」 『楽しかったよ! でも最初はさえちーについていくの、大変だったんだよー』 たとえばね、と弾んだ声で続ける香蓮に相づちを打つ。どれも元気でちょっと失敗しがちなところまで桜映らしいエピソードだったので、自然と頬がほころんだ。どんなに無茶に思えても最後には笑顔にしてくれるのが桜映だった。 『そういえば、泣いてるさえちーをなぐさめたことがあるよ』 「何があったの?」 『ランドセルを持ってたから、学校帰りだったかなぁ。帰り道にある公園に、生垣がトンネルみたいになってるところがあってね、さえちーが面白がって、そこをくぐって遊んでたの。そしたら服を枝に引っ掛けちゃって』 お気に入りのセーターだったらしい。尖った枝に引っ掛けて穴が空いてしまった。顔中にできたすり傷よりも穴が悲しかったようで、桜映が大声を上げて泣き出した。 驚いてうろたえながら、香蓮は必死で慰めた。大丈夫だよ、かれんに任せて――。 そんな思い出を、香蓮は懐かしい様子で語った。 「桜映は昔から変わらないのね」 『大変だったんだよー』 どこか誇らしげに笑って、香蓮はよーし、と意気込んだ。 『ありがとうすみれちゃん! かれんはかれんにできることをして、さえちーのこと待ってるよ』 *** すみれは、自分にできることはなんだろうと考えた。 今度は悩むことなくすぐに思い至る。いまのすみれにできるのはたったひとつ。 すみれのしたいことをすることだ。
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